(有)あべ農園の軌跡 of あべ農園

(有)あべ農園の軌跡

 本報告書は、平成20年度山形県立農業大学校の「農業経営ケースメソッドの確立と実践に関する委託研究」により、山形大学農学部 准教授 角田毅氏がとりまとめたものである。

 

山形県尾花沢市は東に奥羽山脈を臨み、加えて県立自然公園となっている御所山といった山々からなる盆地地形で自然に恵まれた地域である。市内の銀山温泉はNHK連続テレビ小説「おしん」の舞台になったことで有名で、今も尚大正ロマンを感じさせる当時の面影を残す温泉宿が立ち並んでいる。またかつて松尾芭蕉が「おくのほそ道」の過程で10日も逗留したとされており県内でも有数の歴史ある地域である。尾花沢盆地は奥羽山脈をはじめとする雄大な山に囲まれ起伏に富んでいる。地形の影響もあり短い日照時間と低温、多湿、多雪のため、春の融雪が遅く、農耕期間が短い。同市が日本一のスイカの大産地となったのはこうした厳しい気象条件がある。豪雪地帯なので果樹は雪で折れてしまうため栽培できない。しかも雪解けが完了する4月から作付ができ、忙しくなる稲作の収獲より前に終わる作物。そうした尾花沢の地域性に合致した作物がスイカだったのである。

 有限会社あべ農園はこの尾花沢市で水稲、スイカ、秋野菜、山菜の複合経営を展開する農業法人である。スイカに関しては尾花沢市屈指の生産量を誇る。あべ農園は直売所の先駆的事例で昭和40年代にスイカの直売を開始した。現在も直売所の経営は続いており、毎日たくさんの人が県内外から訪れている。直売所開設の発案者である代表阿部良一氏の妻敬子氏は「すいかやの母ちゃん」として書籍やテレビ、ラジオなど各種マスコミに取り上げられ、多くの働く女性に勇気を与えている。


○就農、そして直売へ

 あべ農園代表取締役阿部良一氏は昭和22年に山形県尾花沢市西野に生まれた。良一氏の父が昭和20年ごろに入植者として尾花沢市毒沢から西野地区に移り住み稲作を開始した。良一氏は中学校を卒業と同時に家業である稲作農業に就農した。当時は食糧増産を国をあげて奨励していた時代で多くの生産者にとって安定した生活を営むためには稲作が主流であった。また、水田を増やすことが家庭の安定でもあった。その後昭和45年に敬子氏と結婚。しかし同年に生産調整が始まる。当時良一氏は「そんな馬鹿な話があるか。すぐに取りやめになるだろう」と比較的楽観視していた。しかし規制は一向に変わることなく、緩むばかりか強化の一途を辿り生産者としても何らかの対策を講じる必要に迫られた。当初、増加する減反田の対応策としてコイの養殖を開始するも軌道に乗らず断念。ちょうどその頃尾花沢でもスイカの導入が始まった頃で近隣の任意組合の協力もあり、昭和48年にスイカの生産を始める。とはいえまだまだスイカ生産者の数は少なく、市場価格が低かったこともあり初年度は採算が取れなかったという。一年目なのだから仕方ないと次年度も生産を行うが今度は冷夏の影響も重なってしまい採算が合わず赤字となってしまった。「苦労してせっかく作ったのに赤字になるなんてそんな馬鹿な話しがあるか。一体今までなんだったの・・・」。妻である敬子氏は少しでも家計を助けるためにと一計を案じる。

 国道沿いにある友人宅の車庫を2週間だけ借りて試験的に道行く人に直接売ってみようと考えたのである。その友人は日中働きに出るため車庫は何も使われずに空いていた事に目をつけたのである。その結果2週間で75万円の売上げをたたき出した。当時スイカ1玉を1000円で売っていたので単純に計算しても約750玉を売った事になる。このときのことを敬子氏は「当時の農家の母や女は自分で稼いだお金を自分で手にすることなどなかった。女は自分の家がいくらの収入があるのかも分からないのが当たり前。そうした中で自分を介して75万円を手にしたのはものすごい感動だった」と振り返る。もちろん直売をするにあたって敬子氏は様々な試行錯誤を繰り返した。「まず道行く車に停まってもらわなくてはならない。そのためにはスイカを道路から見えるところに並べてみよう。あるいは目を引くようなスイカを置いてみよう。車が停まってくれたら次は買ってもらうにはどうしたらいいか。試食を用意して実際に食べてもらおう。またきてもらうにはどうしたらいいか。おまけをつけてサービスをしよう」。こういったことを家族で話し様々なアイディアを考え、毎日いろいろな工夫を取り入れた。こうして家族で議論することも楽しみの一つとなった。「今まで売る事に関しては他人任せで、その結果赤字になってしまった。でもこうして自分でやってみたらたくさん売れた。その充実感は何物にも変えがたいものだった」という。敬子氏は結婚する前、様々な青年活動に参加し東南アジアなど海外へ出かけた経験もあるバイタリティに溢れる人であった。しかし結婚と同時に家事と農作業で手一杯になってしまい社会とつながるきっかけを失ってしまっていた。しかし「直売で店に立つことで社会への窓口が開けた」という。直売所には様々な人が来ていろいろな話しを聞かせてくれる。しかもお金を稼ぐことができる。そして一日の終わりには売上げを数える。そんな生活が楽しかった。こうして敬子氏の中に積極性が生まれた。ちょうど子供たちが今日学校に通うようになったが、家のある西野から小学校までは小高い山を越えなくてならずかなり大変な道であった。また、まだ街頭も少なく冬には地吹雪で道も見えなくなることもしばしばあったという。そこで夫婦で話し合い子供たちのためにも小学校の近くに引っ越そうと目標を立て本格的に直売に取り組む事になった。その後友人宅の車庫から、同じ国道沿いのドライブインに大きなテントを建てて規模を拡大し直売を開始した。


○山菜の導入
 ドライブインでの直売も大ヒットであった。広くなったこともあり多くの客が詰め掛けた。
しかしまだ当時はスイカと稲作だけの経営であり、冬季間は出稼ぎに出ることが多かった。尾花沢市は豪雪地帯で雪に閉ざされてしまうため冬は農業ができなかった。そのため建設現場などへ出稼ぎに出るのが一般的だったという。そこに良一さんは「物足りなさを感じていた」という。そして「一年を通じて農業者が農業で生計を立てていく手段はないものか」と考えるようになった。こんなエピソードがあった。良一氏が農閑期の間出稼ぎに出て、ようやく帰ってくると子供が父親の顔を見ても近寄ってこない。しばらく家を空けている間に子供が顔を忘れてしまっていたためだ。そんなことがあってから一年中家族が一緒にいられる方法はないものかを思案を巡らせた。そしてしばらくした後に山菜のタラの芽の導入を決める。
 当時はまだ山形県でもタラの芽の生産は行われていなかった。当時は山梨県の駒ケ岳の麓にある白州町が一大産地を形成しており、駒ケ岳にちなんだ「駒みどり」というトゲ無しの品種が有名であった。そこでさっそく良一氏を中心とした生産者仲間3名と市場関係者でその産地へ視察に出かけた。当時山梨県白州町ではタラの芽の生産において10haもの団地化に成功した実績をあげていた。また当時タラの芽研究の第一人者であった藤島勇氏も当地に在住していたことから良一氏らは自分たちで山に入り選抜した良品種を持ち込み名づけていただいたそうだ。そこでつけていただいた名前が山形県を代表する蔵王山にちなんで「蔵王1号」である。その後「蔵王1号」は更なる選抜を繰り返し、現在では「蔵王選抜」として広く栽培されている。このような紆余曲折を経て冬季間のタラの芽栽培が始まった。

○念願叶って・・・
 直売所を設けてからの数年間はスイカを直売できる期間が8月中の1ヶ月間だけであった。しかし2ヶ月直売を続けるにはどうしたらよいかと家族ぐるみでの検討は栽培方法にも及んだ。更に店の内装や品揃え、品物の配置にも様々な店舗を訪ね歩き研究していった。ドライブインでの直売を始めてから8年ほど経ったところで念願の引越しが現実になった。現在のあべ農園がある名木沢地区に引っ越すことができたのである。直売所もテントではなくきちんと施設を建てた。しかし思わぬところに落とし穴があった。長年の願いが叶ったことで満足してしまい、やがて守りの経営に入ってしまったという。するとみるみる直売所は流行らなくなってしまい客足も減少した。そこで「やっぱり守りに入っていてはダメだ。もう一度攻めてみよう」と規模の拡大を図った。そうすることで何より以前どおり生活に張りが生まれ、やりがいを感じるようになったという。その後夏季のスイカ販売だけではせっかくの直売施設がもったいないということで秋にも何か販売できないかと思案し、在来野菜の赤カブを始めた。

○メディア進出
 名木沢へ引越しをして直売施設を構えるようになってから、県内外各地から視察にオつづれる人が増えたという。同じ頃あべ農園がマスコミに登場するようになる。きっかけは阿部夫妻の長女が山形県内の放送局に就職したことであった。長女を介してラジオCMの依頼が舞い込んだのである。「ラジオで百姓のコマーシャルなんて考えもしなかった」と驚いたが、娘がお世話になっているし、せっかくの機会だからやってみようと承諾。どんなCMにしようかという段階になったときに「せっかく農家がやるのだからと専門のアナウンサーをつけずに夫婦でやってみよう」と敬子氏が発案。宣伝文句についてもすべて家族で考えた。そして出来上がったのが終始山形弁でしゃべるという異色のCMだった。今でこそその県らしさを出すために方言を用いたCMは少なくないがその当時は全く前例がなかった。こうした宣伝効果もあって「百姓がCMって一体どんな人がやっているんだろう」と各地からたくさんの農家の人が見に来たという。このCMを皮切りにテレビやラジオ、新聞、雑誌とあべ農園が取り上げられる機会が増え、その知名度はますます上がっていった。
 また、今でこそ全国各地に広がる産地直売所だが当時は全国各地からあべ農園に視察に訪れ、参考にしていったのだという。このときにも面白いエピソードがある。引越しをして新たに直売施設を構えたのを契機に夫婦そろって名刺を作ったのだという。当時「ただの百姓に名刺なんて必要ない。そもそも何のために?」というのが当たり前であった。ラジオCMがヒットしたことでその名刺までもが話題になり「名刺を持った百姓に会いに行こう」などというツアーが組まれたこともあったのだという。また他にも仙台市の観光会社とタイアップして「赤カブ漬物体験ツアー」と称して秋野菜の赤カブを漬物にする体験ツアーを企画したりスイカ狩りのツアーを受け入れたりしている。一時期スイカのオーナー制も行っていたが大きな面積でスイカの生産を行っているあべ農園にとって農繁期の8月に収獲体験を受け入れるのは容易ではなく労働量と人件費の兼ね合いから現在では行っていない。

○家族一丸となっての経営
 直売所を経営するに当たって代表取締役である良一氏は次のように話す。「直売するに当たっての基本はもちろんきちんとしたものを作ること。農地を拡大しすぎると手間をかけられる限度を超えてしまう。そうなると自信を持って美味いと勧められなくなってしまう。しかし直接買っていただく以上はいい加減なことはできない。そうした厳しさがあるのが直売だ」という。現在、あべ農園の後継者となる息子の真一氏は父親以上に厳しい選果を欠かさない。真一氏は平成20年度に山形県認定の山形セレクションに選ばれてから一層厳しいまなざしで生産に関っている。
 農家の経営について真一氏は次のように語っている。「これまでの農家はどんぶり勘定をしすぎた。だからこそ弱かった」。農家のどんぶり勘定については良一氏が興味深い話を聞かせてくれた。「パイプハウスの普及が開始した当時、助成があるということで多くの農家が競うように建設を進めた。しかし結局そうした農家は採算が取れず、儲かっていない。むしろ助成など使わず自分の経営をきちんと管理し自己資本でやっている人が儲かっている」。自分の家の経営を自分で管理することがいかに重要かを物語る話である。
妻の敬子氏は経営について次のようなことを言っている。「同じように作っていても儲けられる人と儲けられない人がいる。同じ1反で5万儲ける人がいれば10万15万と儲ける人もいる。それは生産物の違いではなく売る方法なんです。基本的には他人まかせ。しかしそれだけではダメ。以下に付加価値をつけて売れるかを生産者がしっかり考えなくてはならないんです」。
また良一氏は更に営業活動についてもその重要性を示唆している。まだ新幹線もない頃、夜行列車に飛び乗りパッキングしたスイカを売りに首都圏まで行ったこともあったそうだ。その結果、首都圏の生協から多くの注文が来るようになった。現在でもその取引関係は健在である。「私たち(農家)の弱みは営業をしないこと。作ることには一生懸命でも売る事に関しては全くの素人です。全て他人に任せてしまう」と営業活動の重要性に触れている。
 またあべ農園は群馬県のある大型産地直売所に出品もしている。そこでは各地から様々な農産物が並び連日多くの買い物客でにぎわうそうだ。その際にも良一氏は研究を欠かさない。「どんな店が売れ残るのか、どんな店が流行っているのか。売れるにはそれなりの工夫が必ずある。ただ商品を置いておくだけでは売れない」。そうした様々な現場で培った経験があべ農園の直売所にも活用されている。
良一氏は経営の重要性に関しては入植地だった今の西野地区が物語っているという。「入植当時は皆同じ条件(耕地面積)のもとで農業を始めた。しかし今では農業をやめて、無くなった農家も少なくない。結局それぞれの取り組み次第なのだ。一昔前は頭が悪い人が百姓になったものだった。しかしこれからは頭のいい人が百姓にならなくてはならない。最終的に勉強した人にはかなわないよ」と良一氏は語る。あべ農園では家族の皆が会社の構成員として日々様々なアイディアを出し、意見をぶつけ合っている姿が印象的であった。家族であり、社員。力強い家族の絆があべ農園の根底にあるのではないだろうか。

○遊ぶこと・学ぶこと
 「すいかやの母ちゃん」で一躍有名になった敬子氏は「学ぶこと」の大切さについて若い頃から考えをめぐらせていたという。その背景には「学ぶこと」への憧れがあった。「若い頃はいつもコンプレックス、不満を抱えていた」という。中学校まではクラスで1番勉強のできる生徒だった。もちろん高校に進み勉強をしたかったが家庭の事情から高校へは進学できなかった。そうした事情から高校へ進学はできなかったが、その代わり様々な活動に積極的に参加していくようになる。そしてたくさんの人に出会ったそうだ。更にその中でたくさんの人と自分を比べてみたのだという。そして思い至ったのが「学歴があろうとなかろうとあまり変わらないのではないか」ということだった。人は一生勉強しなければならないもの。だから必ず大学に行かなくてはならないわけじゃないと考えるようになった。しかしさらに様々な国へ出かける中である疑問に至ったのだそうだ。「なぜ日本はこんなにも豊かなのだろう・・・」。そして長い時間をかけてまた一つの答えに行き着く。「日本人は勉強したからこんなにも豊かになったのだ。勉強はすごく大事なものなんだ」と。そして大学へ行くことでできる人間関係の大切さにも言及する。「基本的に百姓は百姓の友人しかいないもの。それは世界が一緒、話題が一緒ということです。しかし他分野の人間とつながることではじめて客観的に自分を見ることができるようになる」。
はじめはあまり乗り気でなかった夫を説得しヨーロッパへ2週間ほど周遊旅行に出かけたこともあったという。敬子氏は、まだ結婚する以前に東南アジアへ行ったときの素晴らしい経験から、いつか夫婦で行ってみたいとかねてから考えていたという。そのヨーロッパ周遊旅行以来、良一氏もその面白さに魅了され夫婦そろって様々な国へ出かけた。現在では歩いた国は30カ国を超えるというというから驚きだ。阿部夫妻の自宅には世界各国で撮った写真がところせましと飾られている。こうした旅行を通じて知り合った人脈はそうそうたるものである。大学の教授や商社マン、保育園の園長など、農業をしているだけでは得られない人脈が数多くできた。もちろんその中から生まれた販路も少なくないという。
 そして敬子氏は言う。「そうして様々な人との出会いの中でまた気が付いたのは、人はあまり変わらない、ということ。皆、働き、ご飯を食べ、お風呂に入って、寝て・・・どんな人でも基本的に人間のやっていることなんてそんなに変わらないんですね」と笑顔で話す。続けて良一氏も言う。「これまで農家の財産といえば土地、農地だった。でもこれからは見聞録のような自分の中に残るものも貴重な財産になる」。息子である真一氏は両親の「遊ぶこと」については次のように考えているそうだ。「遊ぶにしろ様々なものを吸収しながら遊んでいる。自分の興味のあるものに対し常にアンテナを張っているから直売所に活かされるものをたくさん集めてきてくれます」。


○今後の展開
 あべ農園は現在、常時雇用が7名いる。家族労働力も含め11人で経営している。良一氏は経営規模に関しては今のままで十分だと話す。しかし去年からスイカの市場価格が下落したため「いかに市場価格に見合ったコストで生産するかが来年以降の課題だ」と話す。
後継者については前述した息子の真一氏がいる。真一氏は県内屈指の進学高校に通い、大学は東京に出て経営学部に籍を置いた。大学卒業後、23歳のときに実家に戻り就農。今年で10年目である。大学では農学部も視野にあったが父である良一氏が「農業のことは俺が教えてやるから」と経営学部へ進んだ。就職に関しては他産業・他業種も頭をよぎったが最終的に実家に帰り農業を始めた。「自分の友人を見回しても、いろんな職についていても好きな仕事ができているという人は少ない。でも農業は自分でやった分戻ってくる。それが楽しいですね」と明るく話す。今後の展望については「機械や人を雇って規模の拡大を図るか、それとも小さい面積でも品質を重視して勝負するか。面積と人件費の兼ね合いで経営は決まっていくと考えています」と将来の経営像について語る。
真一氏の農業に対する熱意は両親も舌を巻くほどだ。真一氏はこれまで様々な店の外観やディスプレイを見て研究し直売所の参考にしてきた。今では流行る店かそうではないかが一目見てだいたい分かるようになったという。また真一さん自身たくさんの人と接する中で気が付いたことがあるという。「頭がいいだけでなくセンスがある人が成功している。例えば1から10を、順を追って教えなくても1,3,5を知って全てがわかる人。見て盗む技術を持っている人が成功する」。真一氏のこうした洞察力の裏には父良一氏の影響が見え隠れする。真一氏が就農した当時、父の良一さんはほとんど何も教えなかったそうだ。例えば「トラクターに乗って畑まで出て来い」といって自分はさっさと畑に向かったこともあったとそうだ。見て盗むだけでなく、自ら学ぶことを重要だと考えているが故の行動である。そのため真一さんは父だけでなく周囲の農業者から聞いて回り貪欲に生産や経営に関する知識を吸収していった。
今後の課題について真一氏は3年前にできた近隣にバイパス道路による来客数の減少をあげた。直売所前の国道の車の交通量が減少したことで来客数が減少し売上げも落ちたという。今年度は市場からの依頼もあり全量出荷できたが、今後落ちた客足をどうやってカバーしていくか。またスイカ以外の秋野菜などの売り上げも減少したがどうするか。ホームペーもやっているが、現代は非常に多くのかつ多様なサイトがあり、ホームページがあるだけで売れるものではない時代である。「そろそろウチも本腰を入れて営業活動を活発にやっていく必要があるかもしれない。どのようにして売ったらいいか模索しているところです」と将来展望について熱く話してくれた。